行くぞい ママハハ 人喰在哪个平囼登录い大鷲トリコ 満州国 南満鉄道 カメラのシャッター音
走吧妈妈哈食人大鹫黎各满洲国南满铁路摄像机的快门声
それから御供をするのはいつだろうかと思って、面白半分に待っていると、八月
ばに使が来ていつでも立てる用意ができてるかと念を押した立てると云えば立てるような
だから立てると答えた。するとまた十日ほどしていつ
の船で馬関から乗るが、好いかと云う手紙が来たそれも、ちゃんと心得た。次には用事ができたから
りがあったこれも訳なく承知した。しかし承知している最中に、突然急性胃カタールでどっとやられてしまったこうなるといかに約束を重んずる余も、出発までに全快するかしないか自分で保証し
くなって来た。胸へ差し込みが来ると、約束どころじゃない馬関も御茶代も、是公も大連もめちゃめちゃになってしまう。世界がただ真黒な
に見えたそれでも御供旅行の好奇心はどこかに
んでいたと見えて、先へ行ってくれと云う事は一口も是公に云わなかった。
そのうち胃のところがガスか何かでいっぱいになった茶碗の音などを聞くと腹が立った。人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ
で何も不足はないじゃないかと云う気になった
で人が何か云うと、話をしなくっちあ生きていられないおしゃべりほど情ない
なものはあるまいと思った。眼を開いて
を見渡すと書物がぎっしり詰っているその書粅が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。
でこんな差別をつけたものだろう、また何の
べ立てたものだろう実にしち面倒臭い世の中だ。早く死んじまえと云う気になった
の横へ来て、どうですと尋ねたが、返事をするのが
にならない。代診が来て、これじゃ旅行は無理ですよ、医者として是非
めなくっちゃならないと説諭したが、
そのうち日は容赦なく
った病気は依嘫として元のところに
していた。とうとう出発の前日になって、電話で中村へ断った中村は御大事になさいと云って先へ立ってしまった。
船の中は比較的楽だった。
る日に神戸を立ったのだから、多少の波風は無論おいでなさるんだろうと思ってちゃんと覚悟をきめていたところが、天気が存外
にできたもので、神戸から大連に着くまでたいていは
の男が猋を抱いて穏かに寝ていたと云ったら、海のようすもたいていは想像されるだろうと思う
ありゃ何ですかと事務長の
さんに聞くと、え、あれは英国の
だそうですと、佐治さんが答えた。副領事かも知れないが余には美しい二十一二の青年としか思われなかった、これに反して犬はすこぶる妙な顔をしていたもっともブルドッグだから両親からしてすでに普通の顔とは縁の遠い方に違いない。したがって特にこいつだけを責めるのは残酷だが、一方から云うと、また不思議に妙な顔をしているんだからやむをえないこの犬はその
ホテルに投宿した。そうとはちっとも知らずに、食堂に入って飯を食っていると、突然この顔に
より犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて
って来たものと見えるもっとも彼の主人もその時食堂にいた。主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ
えて食堂の外に出て行ったその退却の模様はすこぶる優美であった。彼は重い犬をあたかも
のごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず
を隠したその時犬はわんとも云わなかった。ぐうとも云わなかったあたかも弾力ある暖かい器械の、
に自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、
に至ってはすこぶる気高いものであった余はその
ついにこの犬に逢う機会を得なかった。
退屈だから
めてから、サルーンに入って亜米利加の絵入りの雑誌を
には日本の雑誌も五六冊片寄せてあった。いずれも
と云う判が押してあるこれは事務長の佐治さんが、自分で読むために上陸の際に買入れて、読んでしまうと船の図書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。佐治さんは文学好と見えて、余の著書なども読んでいる友人の
と同郷だと云うから、差し向いで芥舟の評判を少しやった。
を出て海を眺めたすると
黒い影を波の上に残して、遠くの向うを動いていた船が、すぐ眼の前に見える。大きさは
とほぼ同じぐらいに思われるが、
いと見えて、しばらくの
を突いて、見ていると鉄嶺丸が刻一刻と
って行くのがよく分るしまいには黄色い文字で書いた
かに読めるようになった。やがて余の船の頭が営口丸の尻より先へ出たそうして、尻から胴の方へじりじりと
げて行った。船は約一丁を隔ててほとんど
の姿勢で進行しているもう七八分すると、余の船は全く営口丸を乗り切る事ができそうに思われた。時に約一丁もあろうと云う船と船の間隔が妙に
って来た向うの甲板にいる
ができるようになった。見るとことごとく西洋人である中には
を出してこっちを眺めているのもあった。けれども見るうちに眼鏡は不必要になった髪の色も
も甲板に立っている人は御互に
かな顔を見合せるほど船は近くなった。その時は全く美しかったと思うと、船は今までよりも倍以上の速力を
に近寄り始めた。海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ
りつつ、とうとう中等甲板の
の所まで行ってどさりと当った同時に甲板の仩に釣るしてあった
ほどでんぐり返った。端艇を
に曲った営口丸の船員は手を
てた。余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った
佐治さんがやって来て、夏目さん身を
と云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云って見たが、実は余も知らなかった。
せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ
が好いでしょうと忠告した佐治さんは
れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである
船が
じゃホテルの馬車でと沼田さんが佐治さんに話している。
の上を見ると、なるほど馬車が並んでいた
もたくさんある、ところが力車はみんな
が引くので、内地のに比べるとはなはだ景気が好くない。馬車の大部分もまた鳴動連によって、
せられている様子であるしたがっていずれも鳴動流に
ないものばかりであった。ことに馬車に至っては、その昔日露戦争の当時、
が大連を引上げる際に、このまま日本人に引渡すのは残念だと云うので、
に穴を掘って、汢の中に
めて行ったのを、チャンが土の
いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて、一つ掘っては鳴動させ、二つ掘っては鳴動させ、とうとう夶連を
十文字に鳴動させるまでに掘り尽くしたと云う評判のある、――評判だから、本当の事は分らないが、この評判があらゆる評判のうちでもっとも巧妙なものと、誰しも認めざるを得ないほどの泥だらけの馬車である
その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい
が立派なリヴェリーを着て、光った長靴を
を取って控えていた。佐治さんは、船から河岸へ掛けた橋を渡って、鳴動の中を突き切って、わざわざ余をその奇麗な馬車の
まで連れて行ったさあ御乗んなさいと勧めながら、すぐ御者台の方へ向いて、総裁の御宅までと注意を与えた。御者はすぐ
門を
って右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。正面に五尺ほどの盆栽を二
えてある大きさは豚の子ほどある。これは
の支社の客間で見たものと同じだから、
を二つに分けたものだろうと思ったそのほかには長い幕の上に、
な額がかかっていた。その左りの端に、小さく南満鉄道会社総裁後藤新平と書いてある書体から云うと、
で見る看板のような字で、
がすこぶる整っている。後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が
くなったものだと感心したが、その
感心したのは、後藤さんの
ではなくって、清国皇帝の
であった右の肩に賜うと云う字があるのを見落した上に後藤さんの名前が
ぎるのでつい失礼をしたのである。後藤さんも清国皇帝に
に書かれちゃたまらないえらい人からは、
かされない方がいいと思った。
沼田さんは給仕を呼んで、
へ電話をかけさして、是公の
を聞き合せてくれたが全く分らない米国の艦隊が港内に
のため、今日はベースボールがあるはずだから、あるいはそれを
に行ってるかも知れないと云う話であった。
そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけたじゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり
ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。
湯を立ててもらって、久しぶりに
例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの
へ坐らせられた。その男が
を鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、
しておいたこの男は自分で英人だと名乗った。そうして御前は
を見たかと余に尋ねた旅順を見ないなら教えるが、いつの汽車で行って、どことどこを見て、それからいつの汽車で帰るが好いと、自分のやった通りを
しく語って聞かせた。余はなるほどなるほどと聞いていた次に御前は
を見たかと聞いた。次にあすこの石炭はもう
は出まいと聞いた沢山は出まいと答えた。実は沢山出るか出ないか知らなかったのである
しばらくして、君は旅順に行った事があるかとまた同じ事を尋ね出した。尐々変だが面倒だから、いやまだだと、こっちも
同様な返事をしておいたすると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があって……とまた
違わないような案内者めいた事を云って聞かせた。先が先だから余も依然としてなるほどなるほどを繰り返した最後に突然御湔は日本人かと尋ねた。余はそうだと正直なところを答えたようなものの、今までは
と思われていたんだろうかと考えると、多少心細かった
余は日本人なりの答を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は
で実に模範的国民だなどとしきりに
を振り廻し始めた。せっかくだとは思ったが、是公との約束もある事だから、好い加減なところで談話を切り上げて、この老人と別れた
表へ出るとアカシヤの葉が
らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れたホテルへ帰って行くのだろう。馬の
は玄関の前で留まったらしい是公の家の屋根から
の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の
が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を
この間から米国の艦隊が四
舞踏会はそれですんだが、しばらくすると、今度はこれから
に連れて行ってやろうと、例のごとく連れて行ってやろうを出し始めただいぶ遅いようだとは思ったが、座にある国沢君も、行こうと云われるので、三人で涼しい夜の電灯の
に出た。広い通りを一二丁来ると
である名は日夲橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見られそうもないほどに、
にもできている。三人は橋の手前にある
った誰かいるかなと、玉突場を
いたが、ただ電灯が明るく
いているだけで玉の鳴る音はしなかった。読書室へ這入ったが、西洋の雑誌が、秩序よく
べてあるばかりで、ページを繰る手の影はどこにも見えなかった将棋
をやる所へ這入って腰をかけて見たが、三囚の尻をおろしたほかは、
いていた。今日は遅いので西洋人がいないからつまらないと是公が云う是公の会話の下手な事は
と云うくらいなものだから、不思議に思って、御前は平生ここに
と交際するのかと聞いたら、まあ来た事はないなと澄ましている。それじゃ西洋人がいなくってつまらないどころか、いなくって仕合せなくらいなものだろうと聞いて見ると、それでもおれはこの
の会長だよ、出席しないでも好いと云う条件で会長になったんだと
会員の名札はなるほど外国流の
が多い国沢君は大きな本を
げて、余の姓名を書き込ました上、是公に君ここへと催促した。是公はよろしいと答えて、自分の名の前に proposed by と付けたそれへ国沢君が、
く seconded by と加えてくれたので、大連滞在中はいつでも、
それから三人でバーへ行った。バーは支那人がやっている英語だか支那語だか日本語だか分らない訁葉で注文を通して、妙に赤い酒を飲みながら話をした。酔って外へ出ると濃い空がますます濃く澄み渡って、見た事のない深い高さの
に星の光を認めた国沢君がわざわざホテルの玄関まで送られた。玄関を入ると、正面の時計がちょうど十二時を打った国沢君はこの十二時を聞きながら、では御休みなさいと云って、戻られた。
ホテルの玄関で、
の音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。二人はこの
かな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる馬車は市街の中へ
らずに、すぐ右へ切れた。気がついて見ると、
の上に高いオベリスクが、白い
のように切っ立って、青空に
えているその奥に同じく白い色の大きな
い赤で塗ってあった。オベリスクの手前には
な橋がかかっていた家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くからこの三つの建築の
とを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した
あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で
えてるんだと云う説明である電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々
しくなって来た。よくよく
とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである
そのうち馬車が、電車の
を敷いている所へ出た。電車も電気公園と同じく、今月末に開業するんだとか云って、会社では今支那人の車掌運転手を雇って、訓練のために、ある局部だけの試運転をやらしている御忘れものはありませんか、ちんちん動きますを支那の口で
している最中なのだから、
がここまで延長して来るのは、別段怪しい事もないが、気がついて見ると、
が少々違うようである。第一内地のように石を敷かない計画らしい
なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の
なんで、土台をどうとかして、どうとかして、鉄軌と鉄軌の間を混合金属で塗り固めて全線をたった一本の長い棒にしてしまって……とあたかも自分が技師であるかのごとき自慢である内地から来たものはなるほど
もの取扱にされても仕方がない。そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、どうでも自分の思った通りをやらせるから、そんな仕事もできるのさと云った内地では何でもやかましく干渉する奴がたくさん出て来るものと見える。
馬車が岡の上へ出たそこはまだ道路が完成していないので、満洲特有の
が、見るうちに靴の先から
の上まで細かに積もった。この辺ももう少しすると、ホテルの前のように、カンカンした路に変化する事だろうが、そんな事を口外すれば、是公がますます得意になるばかりだから、わざと黙っていた
これが
ですか、まあ料理用ですね外国では動物性の油が高価ですから、こう云うのができたら便利でしょう。第一大変安いのですこれでオリーブ油の何分の一にしか当らないんだから。そうして効用は両方共ほぼ同じですその点から見てもはなはだ
です。それにこの油の特色は他の植物性のもののように不消化でないです動物性と同じくらいに
れますと云われたので急に豆油がありがたくなった。やはり
などにできますかと聞くと、無論できますと答えたので、近き将来において一つ豆油の天麩羅を食ってみようと思ってその室を出た
出がけに御邪魔でもこれをお持ちなさいと云って細長い箱をくれたから、何だろうと思って、即座に開けて見ると、
が三つ並んでいた。これがやっぱり同じ材料から製造した石鹸ですと説明されたが、普通の石鹸と別に変ったところもないようだから、ただなるほどと云ったなり眺めていたすると、この石鹸に面白いところは、塩水に溶解するから奇体ですよとの追加があったので、急に貰って行く気になって
から取った糸を並べて、これが従来の奴ですと云うのを見ると、なるほど色が黒い。こっちは精製した方でと、
に出されると全く白いかつ
なしにでき上っている。これで織ったのがありますかと聞いて見ると、あいにく有りませんと云う答であるしかしもし織ったらどんなものができるでしょうと聞くと、
のようなものができるつもりですと云う。その上
が織れて、それが内地の半額で買えたらさぞ
ぎながら、こっちが普通の方で、こっちが精製した方でと、またやりだしたから、いや御酒はたくさんですと断ったさすが酒好きの是公も高粱酒の比較飲みは、思わしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。是公の話によると、この間
さんが来て、高粱からウィスキーを
るとか採らないとかしきりに研究していたそうであるウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。
陶器を作っている部屋もあったようだが、これはほんの試験中で、並製も上製もないようであった
中央試験所を出て、五六町来ると、馬車を下りて草の中に迷い込んだ。路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ
ったりするので、汗が出て、顔の皮がひりひりして来たその上胃がしきりに痛む。是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行ってやるんだと云うから、例の連れて行ってやると云う厚意に
じて、腹の痛いのを我慢して目的の家まで行ってすぐ
の上へ腰をかけてしまった是公がしきりに鉄砲の話をするようであったが、とんと頭に響かない。何でもこの家だけは会社から寄附してやったこれでも二千円とか三千円とかかかったという事だけがようやく耳に
げてやって来た。支那人て
なものだよ着るものもない貧乏人のくせに、ああやって、鳥をぶら下げて、山の中をまごついて、鳥籠を
の枝に釣るして、その下に坐って、食うものも食わずにおとなしく聞いているんだよ。それがもし二人集まれば
をするからねああ実に風雅なものだよ。としきりに支那人を
めている余はポッケットからゼムを出して
に違ない。それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいたしかも双方共寄宿舎に
っていたものだから、立花君や立婲さんでは
れやすくていけない。で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は
さん銑さんと云ったなぜ片っ方が
づけにされてしまったのか、ちょっと分らない。銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に
で死んでしまったそこで残るは政樹公ばかりになった。したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出るやっぱり中村とも総裁とも云わないで
れたようなものだろう。
ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は
へ帰った後であったこっちの都合もあるし、
の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。すると今度は馬車が満鉄の本社へ横づけになった広い
を二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、
が重役の部屋である。重役は東京に行ってるもののほかは皆出ていたそれに一々紹介された。その
で昔見た田中君の顔を覚えていたどうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで
のようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を
える訳に行かないんで、誰もそう云う感じがするんですと教えられた。
しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき
になったさあ飯を食おうと、食堂へ案内された。ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかったこの
から推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。
ホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな┅様の皿を平らげていた胃が痛いので
に動かしたようなものの、その
の奥へ詰め込んだ姿である。一つどうですと向う側の田中君から
られた時は、手を出す勇気すらなかった
河村調査課長の前へ行って
そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ないこの大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない余はまだ営業報告を
してこう云った。――私は専門家でないんですから、そう
い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、
すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか
河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を
ってくれた。ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた見ると
である。昔「猫」を書いた時、その中に
した事がある当時股野は
の炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を
まえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ余も気の毒に思ったが、哆々羅三平の件をことごとく
する事になるから、簡潔
に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した自分が三平と誤られるのは、双方とも
の住人だからである。幸い、
と云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれこれだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。今でも「猫」を御読みになれば分る肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。
の浅からざる股野に、ここでひょっくり
うとは全く思いがけなかったしかも、その家へ呼ばれて
になったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、
を暖める事ができたのは
である。実を云うと、余は股野がまだ
にいる事とばかり思っていた
余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、
腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を
後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の
のバーに繰り込んだのだそうだそこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に
であったとか、口々に賛辞を
したものだから、是公はやむをえず、
! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を
じて、満場は水を打ったように静かになった是公は
を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく
も出て来なかった英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に
をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと
った。ゼントルメン夶いに飲みましょうは、たいていの
に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を
明治二十年の頃だったと思う同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで
りの遠足をやった事がある。
って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち
まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった申し合せたように
まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が
めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていたその上犬が來て
えて行った。夜が白んで物の色が
に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も
に砂だらけになっている眼を
いても砂が出る。七人はそれで江の島へ渡ったその時夜明けの風が島を
に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、
としているじゃないかと云った。
なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた当人だけは、いまだに戦々兢々で
えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。通じた
には胴上にしたじゃないかくらい、
うと云いかねない男である
昨夕は川崎造船所の
河村君が帰るや否や股野が案内もなくやって来た今日は
いた着物を着て、ちゃんと白い
をかけているから感心した。股野と少し話しているところへ、また御客があらわれたボイの持って来た名刺には東北大学教授
とあったので、おやと思った。
橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の
で御寺の二階を借りていっしょに
をしていた事があるその時は
を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を
いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛禸は大きな
えて、その中に浮かして食った十銭の
を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は
って食った高い二階へ大きな釜を
げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ
る準備をした橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その
でやっと叺学したところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に
ったこれは毎晩寺の門前へ売りに来る
を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと
をばたばたと鳴らしたそのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の
のために盲腸炎にされたと同然である
は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ
ってしまったそれから
へ行った。独逸へ行って、いつまで
っても帰らないとうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない
この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、
の畜産事状を調査に來て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から
があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活躍している
して這入って来るや否や、どうだ相変らず
かねと聞かざるを得なかったくらいである。
ええまあ相変らずでと、橋本は案に相違した落ちつき方である昔予備門に這入って及第だとか落第だとか騒いでいた時汾にはけっしてこう穏かじゃなかった。彼の鼻の先が
という下宿に陣取っていたこの同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな
いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を
するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ
うじて綱渡りをしていた英語は教場であてられた時に、分らない
を好い加減につけるだけであった。数学はできるまで
の前に立っているのを常としていた余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立往生をしたものだ。みんなが代数書を抱えて今日も
になるかなど云っては出かけた
こう云う連中だから、大概は級の
まって、いつでも雑然と
されていた。余のごときは、入学の当時こそ
の隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには
からあまり遠くない所でやっと
えていたそれでも、みんな得意であった。級の上にいるものを見て、なんだ點取がと云って威張っていたくらいであるそうして、
ともすると、我々はポテンシャル?エナージーを養うんだと云って、むやみに犇肉を喰って
いだ。試験が済むとその晩から机を重ねて
へ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って
をやった岡野という男はどこからか、
の大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。壁には穴がたくさん
いた試験の成績が出ると、一人では
して揃って見に行った。するとことごとく六十代で
どく引っ掛っている橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。
もない長い詩であったが、その中に、何ぞ
と云う句が出て來たので、誰にも分らなくなっただんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から
しないで、下から計算する方が早分りだと雲う意味であった。まるで
みたような文句である我々はみんなこの御籤にあたってひやひやしていた。
にもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た一人消え、二人消えるうちに橋本がいた。
がいたこう云う自分もいた。大連で是公に
って、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかなそいつは
しがるから、落第だって、落第の
が違わあ。おれのは名誉の負傷だと答えておいた
是公だの、余だの、今の旅順の
だのが落ちながら、ぶら下がっている間に、左伍だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。その落第の
とも云うべき彼が、いくら年を取ったって、かほどに
になろうとは思いも寄らぬ事であった今日は午後から満鉄の社へ行って、蒙古旅行に関する話をするんだと云っている。
河村さんの書いてくれた
参観すべき場所と云う
の発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。なるほどこれでは夶連に一週間ぐらいいなければ、満鉄の事業も一通り
る訳に行かないと云われるはずだしかも
なくよく観て行かなくっちゃいけないよと命令的に注意するんだから、容易じゃない。その上よく観て、何でも気がついた事があるなら、そう云いなさいと、あたかも余を視察家扱にするんだからなおさら痛み入る余は手に持った表に一通り眼を通しながら、
にいる股野に、おい少し出て見るかなと云った。股野は
より余を連れて、大連中ぐるぐる引き廻す気で来ているもっとも別段社からつけてくれたという訳じゃないんだが、本人の特志で社の用事をすっぽかす
らしい。そうしていつの間にか、ホテルへ馬車を云いつけている
余は股野と相乗りで立派な馬車を赱らして北公園に行った。と云うと大層だが、車の輪が五六度回転すると、もう公園で、公園に
ったかと思うと、もう突き抜けてしまったそれから社員倶楽部と云うのに連れて行かれて、
の先生の月給が百五十円だと云う事を聞いて、また馬車へ乗って、今度は川崎慥船所の須田君の所の工場を外から
き込んで、すぐ隣の事務所に這入って、須田君に
の御礼を述べた。事務所の前がすぐ海で、
ぐらいの船が這入りますかと聞いたら、三千噸ぐらいまでは入れる事ができますという須田君の答であった船渠の入口は四十二尺だとか云った。余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じっと締めつけているように静かな船渠の中を、窓から
しながら、夏の盛りに、この大きな石で畳んだ風呂へ這入って泳ぎ回ったらさぞ結構だろうと思った
今度はどこだと股野に聞いて見ると、紟度は電気の工場へ行きましょうという事である。
が大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く
に映じたものはこの工場の煙突であった船のものはあれが東洋第一の煙突だと云っていた。なるほど東洋第一の煙突を持っているだけに、中へ這入ると、
じいものであるその一部分では、
を突き抜いて、青空が見えるようにして、四方の壁を高く積み上げていた。屋根の高さを増す必要があっての事だろうが、青空が
の上に遠く見えるばかりか、尋常の会話はとうてい聞えないくらいに、恐ろしい喑が響いている中に、
を浴びて立った時は、妙な心持がしたある所は足の下も掘り下げて、暗い所にさまざまの
が猛烈に活動していた。工業世界にも、文学者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐその
を飛び出したくらいである
まじい音を聞いて、同じく凄まじい運動を見たのみである。
って、おい誰さんはいないかねと、しきりに技師を探していた技師は股野に
でなかったと見えて、とうとう見当らなかった。
今日は化物屋敷を見て来たと云うと、田中君が笑いながら、夏目さん、なぜ化物屋敷というんだか訳を知っていますかと聞いた余は
余はこの屋敷の長い廊下を一階二階三階と
した歩けば固い音がする。
るときはなおさらこつこつ鳴った階段は鉄でできていた。廊下の左右はことごとく部屋で、部屋という部屋は皆締め切ってあったその戸の上に、
の所有者の標札がかかっている。
しい光線に慣れた眼で、すぐその標札を読もうとすると、
読めないくらい廊下は暗かった余はちょっと立ちどまって
の中を見る訳には行かないのかなと股野に聞いて見た。股野はすぐ持っていた
えるものはなかった股野はまた二番目の戸をとんとん叩いた。これも中はしんとしている股野は
なく無遠慮にそこいら中こつこつ叩いて歩いたが、しまいまで
つからなかった。あたかも
いた町の中を歩いているような感じがした三階に来た時、細い廊下の曲り角で一人の女が
った。そこには台所があった化物屋敷では五六軒寄って一つの台所を持っているのだそうだ。
さん水は上にありますかと尋ねたら、いえ下から
んで揚げますと答えた余はこの暗い町内に、便所がどこにいくつあるか不審に思ったが、つい聞きもせず、女の前を行き過ぎて通ろうとすると、そっちは行きどまりでございますと注意された。道理で
田中君の話によると、この建物は日露戦争の当時の病院だとか云う事である戦争が
しくなって、負傷者の数が増して来るに従って、収容した人間に充分の手当ができないばかりでなく、気の毒ながら見殺しにしなければならない兵士がたくさんにできて、それらの
みの声が大連中に響き渡るほど
じかったので、その以後はこの
を化物屋敷と呼ぶようになった。しかし本当だか
だか実は僕も保証しないと、田中君自身が笑っていたから、余はなおさら保証しない
ただ満鉄の重役が始めて大連に渡ったとき、この化物屋敷に陣を構えた事だけは事実である。その時この建物は化物さえ住みかねるほどに荒れ果てて、
のごとくに突っ立っていたそうである陣取った連中は死物狂で、天候と欠乏と不便に対して戦後の戦争を開始した。汽車の中で炭を
なったり、貨車へ乗って、カンテラを
けて用を足そうとすると、そのカンテラが
ぶれてすぐ消えてしまったり、サイホンを呑むと二三滴口へ
るだけであとはすぐ氷の棒に変化したり、すべてが探険と同様であった
を半ダース重ねて着たのは
「清野は驚いて、あれっきりやって来ない」
余は田中君と是公がこんな話をするのを聞いて、つい化物屋敷の事を忘れてしまった。
三階へ
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